個人的な「感じ」− の個人的な感じ

 自動車のテストドライバーとレーサーは違います。同じように、アーチェリーのテストシューターと選手もまったく別の存在です。レーサーや選手に求められるものは、勝利です。そのためには、勝つための能力と技術が必要です。しかしテストドライバーやテストシューターに求められるのは、速く走ることでも当てることでもありません。
 自動車は、カタログを見れば性能は分かります。しかし同じ数値やデータであっても、乗り心地やフィーリングはまったく異なるものです。アーチェリーの弓も、強さやそこに至るF-X曲線は簡単に測定できます。しかしそこには数値やグラフでは表せない多くの要素が含まれています。テストシューターとは、そんな目には見えない「感じ」を表し評価し、製品に反映させる人のことです。
 「名選手、名コーチにあらず」というのと同じように、トップアーチャーだから製品の評価ができるかというと、それは大きな間違いです。これまで何人かの世界チャンピオンを含め、多くのトップアーチャーと道具についての会話を交わしてきましたが、弓が当たることと道具への評価(知識ではなく)はまったく違う資質の部分です。弓のことは知らなくても、弓は当たります。では逆に「名コーチ、名選手であらず」は、それはそれで正しいのでしょうが、個人的な感じでいえば名コーチは名選手であるべきとは思っています。修羅場をくぐっていない者に、修羅場の何たるかは教えられないからです。が、そのことは今回は置いておいて。。。
 弓が当たらなくても、矢をゴールドに運べなくても、弓の評価はできます。しかしそれは弓が射てれば、引ければ誰にでもできるというものではありません。ましてや、長くやっていたり、ショップをやっていればできるというものでもありません。個人的な感じでいえば、資質が必要です。訓練すればある程度はできるでしょうが、最後の部分は持って生まれた才能です。分かるヤツには分かるけれど、分からないヤツには分からない、チャンピオンになるにはチャンピオンの資質が、テストシューターになるにはテストシューターの資質が必要なのです。
 ただし、幸か不幸か世の中の人間のほとんどは、自動車も弓も作る立場や意見を言う立場にもいません。たぶん、あなたもできあがった製品を買う立場にしかないでしょう。許されるのは選択のみです。お金さえあれば、一般人でもFerrariに乗ることはできます。ただし、同じ車が家にあるからといって、一般人がシューマッハになれるはずはなく、またシューマッハが韓国製や中国製の車に乗っても、シューマッハであることになんら変わりないのも事実です。
 
 ところでコーチングを表す言葉の1つに、「客観を主観に翻訳すること」という名言があります。これも「名選手、名コーチにあらず」に通じるのですが、客観(的事実)とは、数値やグラフ、データであり、万人に認識できる共通の基準のことです。しかし、万人に共通に通じる言葉であれば万人が同じように理解、認識できるかは別問題です。
 例えば、ピッチャーの投げる球が時速150キロでストライクゾーンを通過したというのは客観的事実です。これを調べたり研究している人間にとっては重要なことです。しかしそれを打とうとするバッターにとっては、さほど重要な意味は持っていません。飛んでくる球には抑えの効いた球もあれば、伸びる球も重い球もあります。得意なコース、打ちにくい位置があります。バッターにとっては、150キロで向かってくる球がどんな球で、自分はどう感じるかの方が重要であり、それこそが主観的事実なのです。
 あるいは、もっと上腕二頭筋を緊張させて引けと言われても、上腕二頭筋がどの筋肉かを知らなければ意味不明なだけで、仮に上腕二頭筋を知っていてもそれを実行することは容易ではないでしょう。そんな時、力こぶを作るような感じで引けと言われれば、初心者であっても何かを始めることができます。選手にとっては、客観的事実より主観的事実の方がはるかに重要なのです。しかし自分が知る主観的事実(感じ)を他人に正確に伝えようとするなら、名コーチ、名テストシューターほどの才能が必要になります。
 近年、製品となった商品をばら撒くメーカーや、それを金銭と交換に使う選手はよく見ますが、製品となる前の製品(プロトタイプ)をテストする選手やテストシューターを見かけなくなりました。それにあわせて定番商品名機と呼ばれるモデルもなくなり、世に出た商品がパソコンソフトと同じようにモデルチェンジや不具合の修正を節操なく行ったり、ベータ版以前のモデルでも製品として販売されるようになりました。よく言えば、万人がテストシューターかネギをしょった上得意様状態です。
 こうなった背景には、ノウハウや情熱のない新興メーカーの進出と客観的事実をはじき出す測定機器の進歩があります。おかげでカタログやネットには、最新最高性能、高速、超軽量などの文字が数字やグラフと一緒に踊っています。ではそんな情報が客観的事実に値しますか。さも重要そうに語られる重さやF-X曲線で何を比較できますか。基準も条件も方法も違うデータをいくら集めても、それだけのコトです。素材の構成らしきスケッチで素材の質と性能がわかりますか。チャンピオンが使っている道具と市販品が同じである証拠がありますか。ここにはA社のBというモデルとC社のDというモデルを比較できる客観的事実(情報)は存在していません。存在しているのはBとDの価格差と、同じらしきモデルを誰が使っているかの情報に加えて、メーカーの宣伝文句という主観的事実だけです。
 こうなってしまったもうひとつの大きな原因が、カーボンアローです。魔法の道具と呼ぶに値しないこんな陳腐な道具(素材)が登場したお陰で、メーカーの研究も弓具の進歩も、そして選手の努力までもが怠惰なものになってしまいました。弓は性能を語らず、低ポンドであっても、技術がなくても、矢は90mを飛ぶのです。そして選手はそれが自分の才能であるかのように錯覚を起こします。
 だからこそ今、日本が勝つために「性能」が必要です。どんな技も力の中にしか存在しません。技が同じなら、力のある方が勝ちます。それがスポーツです。40年前に日本が世界を目指し、行った努力を今一度思い起こすべきです。体格もパワーも劣り、そこにお仕着せや借り物の道具、見せ掛けの性能をいくらまとってもトップに立つことはできません。コピーはオリジナルに並ぶことはできても、超えることはできません。勝つには新たなオリジナルを、アイデンティティーを創り出すしかないのです。そのためには知識も才能も必要です。。。。
 と、そんなことを想う、2011年の押し詰まった年の瀬です・・・。
 
 ところで、たとえば矢速。特に素人は、矢飛びの悪い方が速いと勘違いしませんか。バタバタ鳩が飛ぶ方が、ツバメが飛ぶより注意を引き、目立ち、速そうにも見えるものです。逆に納豆を投げたように(糸を引くように)飛ぶ矢の方が、遅くゆっくり飛んでいるように見えます。それは一直線に安定して無駄なく飛ぶからこそそう見えるのです。
 このように世の中、客観的事実と主観的事実は往々にして異なります。それに加えて素人は、上級者やショップの言われるままに先入観を持ってしまいます。そんな上級者やショップの人間がテストシューターの資質や良識を持っていればいいのですが、、、だからこそ、それを見極める目と才能が必要になります。特にリカーブはコンパウンド以上に主観的事実が多くを占め、重要になります。なぜなら、コンパウンドは機械の弓を機械的に発射するのに対して、リカーブは道具としての弓を生身の人間が手で射つからです。そこには当然「感じ」が重要になり、同時に道具はその人が使いこなせる範疇になければなりません。いくら数値がすばらしく、勝っていてもそれを使いこなせるだけの技術と能力がなければ宝の持ち腐れです。
 来る新年、道具に弄ばれるのではなく、自分の納得、満足の行く道具を使って、素敵なアーチェリーの1年になりますように。
 心からお祈りします。 (おしまい)