和弓のアーチェリー

 このページが和弓を愛好される皆さんからのご訪問を受けることも、和弓の掲示板でたまに議論になることがあるのも知っています。そのうえで、この試合に参加された松島伸一さんから、こんな貴重な写真をいただきました。また前田栄一郎さんからも貴重な話をたくさん伺いました。
 というわけで、日本のアーチェリーと弓道の世界にこんな歴史の事実があったということで紹介させていただきます。


  

 1967(昭和42)年オランダ アマースフォート、第24回アーチェリー世界選手権。そこに日本代表として和弓で初めて参加した、宮田純治 選手の写真です。
 この時、日本からは8名のエントリー枠の中で男子7名の選手が参加しています。彼らは「全日本弓道連盟」に登録された日本代表でした。実は当時、1956(昭和31)年に発足した「日本アーチェリー協会」なる組織はあったのですが、実際には先の全日本弓道連盟が日本におけるアーチェリー(和弓に対する洋弓)を統括していました。そして1958(昭和33)年にはFITA(国際アーチェリー連盟)への加盟申請を行い、認められることで名実ともに世界における日本のアーチェリーを統括する唯一の団体となっていました。
 その背景には1964(昭和39)年に行われる東京オリンピックで、アーチェリーが正式種目として実施されるというIOC決定がありました。全日本弓道連盟はFITA正式加盟の年に「国際部」を設け、東京オリンピックでの和弓の勝利を目指し、信じてアーチェリーの調査研究を行っていました。しかし実際にはエントリー国数が少なく東京での実施は見送られ、オリンピックでのアーチェリー競技の復活は1972(昭和47)年ミュンヘンまで先送りされます。
 そんな中で1959(昭和34)年には「全日本学生アーチェリー連盟」が発足、1966(昭和41)年にはその延長線上に「全日本アーチェリー連盟」が結成されます。
 オリンピック参加がなくなる一方で、国内におけるアーチェリーの隆盛は双方に対立を生み、感情論にまで発展します。FITAへの加盟権譲渡を全日本アーチェリー連盟は全日本弓道連盟に迫るなか、この大会のエントリーを前にして双方に話し合いがもたれます。
 そして歴史に残るこの写真となるのです。当初、全日本弓道連盟はより多くの和弓選手の参加を望んだようですが、結局は1名の参加となります。しかし、結果は男子個人129名参加中、最下位の129位。
 この惨敗と国内のアーチェリー人口拡大を背景に、1968(昭和43)年全日本弓道連盟はFITA加盟権を全日本アーチェリー連盟に譲渡することを正式決定。翌年1969(昭和44)年にFITAは全日本アーチェリー連盟を日本におけるアーチェリーの統括組織とし、正式加盟を認め現在に至るのです。
 

24th World Championship Tournament
  July 25. - 28. 1967
AMERSFOORT, HOLLAND
 
 90m  70m  50m  30m
1. R.Rogers 218/36 287/4 299/2 336/3 1140/2
 USA 237/11 299/1 296/2 326/15 1158/2
455/18 586/1 595/1 662/6 2298
 
24 M.Sueda 231/17 266/28 274/22 313/61 1084/22
 Japan 201/55 262/44 294/8 328/11 1085/25
432/34 528/32 568/11 641/25 2169
27 E.Maeda 178/81 257/46 277/16 326/13 1039/42
 Japan 231/18 278/17 286/16 327/13 1122/17
410/47 535/29 563/13 653/11 2161
29 H.Enjyoji 217/38 257/ 268/35 325/15 1067/30
 Japan 214/36 266/38 278/38 326/18 1084/26
431/35 523/39 546/31 651/11 2151
52 S.Kimura 192/67 231/88 266/40 307/81  996/68
 Japan 215/33 254/59 259/73 325/22 1053/45
407/51 485/73 525/59 632/42 2049
73 S.Matsushima 225/23 226/95 215/116 309/77  975/82
 Japan 178/89 246/70 282/27 321/32 1028/59
404/55 472/84 497/85 630/48 2003
115 Y.Shiomi 149/113 192/122 240/93 305/86  886/111
 Japan 140/118 240/80 207/121 276/121  863/115
289/119 430/110 447/111 581/113 1749
129 J.Miyata 78/129 128/129 194/128 229/129  629/129
 Japan 135/121 191/124 148/129 254/126  728/129
213/128 319/129 342/129 483/129 1357
 
 
 世界選手権代表メンバー。団長は和弓から渡辺男二郎さん(左から4人目)、監督はアーチェリーから細井英彦さん(左から3人目)。一番左端が宮田さん。そしてアーチェリーでの参加は、左側から早稲田OBの円城寺紘征さん、大阪府大OB末田 実さん、芝浦工大の松島伸一さん、早稲田の木村修司さん、明学の前田栄一郎さん、日体大の塩見芳信さんです。
 この時、全日本アーチェリー連盟は独自に選考会を行いこの6名の選手を選び、その後全日本弓道連盟の代表3名を加えて最終選考会が行われました。結果的に和弓でのトップであった宮田さんを加え、アーチェリーの6名は一時的に全日本弓道連盟に会員登録して、合計7名の日本代表が世界選手権に派遣されました。
 全日本アーチェリー連盟発足後初めての世界選手権参加であり、全日本弓道連盟最後の参加でもありました。日本が初めて世界選手権に参加したのは1961(昭和36)年オスロ大会。そして1963(昭和38)年ヘルシンキ大会にも選手を送っていますが、すべてアーチェリーの選手です。(1965年スウェーデン大会は不参加)
 
 この大会ではそれまで1立6射5分だったのが、3射2分30秒の新ルールが適用された最初の試合だったようです。知らなかったのですが、この時は先立の選手が3射終了してシューティングラインを外すと、次の選手が射ってもよかったそうです。そのために他国の選手が混ざって並んでいる写真があります。
 それにしても、レイ・ロジャースはすごい点数です。ワンピースボウ、グラスリム、ダクロンストリング、アルミアロー、エクステンションなし、4インチスタビライザー2本、クッションプランジャーなし、そしてなによりもすでにクリッカーを使う選手がいる中、最後のノークリッカーチャンピオンです。
 そしてそれと同じくらいにすごいのが、宮田さんの点数です。矢はアルミですが、特注の背の低い鳥羽根。すべての距離で使われたか定かではありませんが、手製のサイトは付けられていたようです。しかし、竹の和弓で90mから射ってこの点数です。ちょっと普通で出せる点数ではありません。和弓の枠を超えて、いろいろと試し研究されていた立派な方だったそうです。宮田さんが唯一派遣されたのも、その技術が卓越していたからのようです。
 どちらも驚異的だと思います。世界への第一歩。日本のアーチェリーの原点が、ここにもあったのです。

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