わすれる

 どうして忘れられないんでしょうかね ?
 仕事のことや勉強のことはすぐに忘れてしまうのに、たかがアーチェリーでミスったり、うまく出来なかったことをどうして忘れないんでしょう・・・・。
 たしかにコンピュータでも学習するわけで、忘れず根に持って反省することから上達への道が拓けるのは事実であり、大切なことです。しかしアーチェリーで忘れないことと、忘れることとで、どちらが得する場面があると思いますか。多分、忘れた方が良かった、と思うほうが圧倒的に多いのがアーチェリーって競技ではないでしょうか。
 例えば試合で1本の矢を外したとします。その原因が風のせいなのか(外的要因)、射ち方のせいなのか(内的要因)をまず考えてみましょう。その両方ということもあるでしょうが、それが外的要因であればそこには学習が必要です。的の上の旗を見て同じ風が吹いているなら、サイトを動かすなりエイミングポイントを変えるなりして次の矢を射たなければ、また同じミスをしてしまいます。同じ過ちを繰り返さないためにも、その状況を覚え判断し対応する必要があります。もしリリースの後に急に吹いた風のためという不可抗力であったとしても、サルでも学習するでしょう。
 では次は原因が自分の中にあった場合です。その時も学習が必要でしょうか。
 例えばここでも不可抗力の結果外れる場合があります。矢が曲がったり、ハネが取れかけていたり、ストリングが切れたり、ストリングに服が引っかかったり・・・・しかしこれらは不可抗力ではなく不注意です。それでも起こった時は原因を早急に究明して改善する必要があります。しかし、その改善がなされた後では、そんなことに意識が残っている方が事態は悪くなるでしょう。その意味でも、忘れることが必要です。
 では本当の不可抗力、コンセントレーション(精神集中)が突然切れたり、なぜか分らないけれど急にうまく射てなかったり・・・・・こんな時でも、忘れる方が次のシューティングには好結果をもたらすのではないでしょうか。
 このように道具における不注意を含め、射ち方、技術、メンタルすべての場面おいて自分が外した(本来の的中より外に矢が当たる)と思った時は「ミス」です。ここで非常に重要なことは、「ミス」の裏返しは「グッドシュート」であり「本来の求めるシューティング」です。ということは、ミスはイレギュラーであり求めるものではないということです。もう少し言えば、求めるものが分っているからこそミスを感じるのであり、求めるものがなければミスもありません。
 ならば、ミスはミスであり、そこに原因や理由を究明する必要などないのです。忘れりゃいいんです。
 「リリースが3cm開いたら左下の7点に行く」とか、「5cmだと6点・・・」等と知っていても何も偉くはないのです。あるいはそんなことを知るための練習など不要です。アーチャーは当てるために射ってるんですから。5cmリリースを取られたアーチャーは次にそれを4cmにすることを求めて練習するのではありません。10cm取られようが20cm取られようが、いつも求めているのは「ゼロcm」であり、完璧に対しては1cmでも2cmでも「ミス」に変わりはないのです。
 練習でも試合でも、アーチャーは一本一本完璧に対し自分のシューティングを積み上げていきます。その時、求めるイメージや完璧の形が分らなければ話は別ですが、出来る出来ないは別にしてそれらがあるなら、やはりミスは忘れるべきでしょう。
 しかし、忘れるのは本当は簡単なことではありません。忘れるにも努力がいるんです。それは「忘れる」ことを考えるのではなく、忘れたいこと以外に集中することで、忘れたいことを忘れられます。忘れたいこと以外のことこそが「求めるもの」であり「完璧」です。うまく射てようが射てまいが、ミスをしようが、どんな時でもアーチャーは自分の理想を求めることこそが練習であり試合なのです。
 忘れなさい。いつも新たな気持ちで自分の理想を次の一本に求めなさい。それを一本一本積み重ねていくことがパーフェクトへの道です。
Do the Best for Good Shooting!!!

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