いつの世界フィールドか忘れましたが、多分フィンランドかイギリスの試合だったと思うのですが、30mの凄い射ち下ろしで私の射った矢がスポットを貫通して的の後方数メートルに転がったことがありました。同じグループの選手はみんな見ていたのですが、矢取りにいくと当然のことながら的面に矢はないわけです。また、的中孔チェックは意味をなさないくらいにスポット付近はボロボロで、一切確認などできない状態でした。多分、国内の試合(ゴメンナサイ)ならどうゴネても0点だと思うのですが、あの時はアメリカの審判でしたが、数メートルも後方の矢の状態や的の状態、そして何よりも同じ的を射っている他の選手の話(的を貫通したという証言)を聞いて、結果的には5点(スポット)と判定されました。 |
この話を個人的には非常に気に入っています。地球の裏側から十数時間かけて、「世界」にある意味命を賭けて数十人が集まって来ているわけです。事実そうした選手同士が当ったと言っているのに、もしそれをルール上(本当にルールは大事なのですよ!!しかし)のことだけで0点とした時にその選手のそこにいたるまでの努力や時間やその他もろもろの出来事がどうなるのか・・・。ルールよりもっと大事な現実もあるのです。 |
よく国内の試合でも、例えば同じ的を射つ選手が10点か9点かオンラインの判定が微妙で聞いてくることがあります。そんな時私としては、いくら微妙であってももし10点と判断するなら、「10点です」と言ってあげます。それで決まりです。しかし、もし10点とは判断できない場合(内心は9点と思っていても微妙な場合)は、「分からないです。ジャッジを呼びましょうか?!」と答えます。あきらかに9点と思うような時は、「9点と思いますが、ジャッジを呼びますか?」と聞きますが・・・・。 |
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どんな競技においても主役(中心)は選手なのです。そして少なくともアーチェリーにおいては、的面での判断はまずすべてがそこを射つ選手に委ねられるべきです。どうしてもそこで判断がつかない(全員一致が得られない)場合に、はじめてジャッジが必要となるのです。それまでは、呼んでもいないのに割りこんでくるジャッジ、的面を触りながら判断を下すジャッジ、ルールも常識も知らないジャッジなどはいらないのです。でも、ジャッジを呼んだ以上は、たよりない判断であっても我々選手はその裁定に従います。それがルールです。 |
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最近、試合場以外でアーチェリーのルールのあり方を云々する場面によく遭遇します。「ルールは厳格に、遵守して・・・・」といった議論です。それは結構です。非常に重要な問題です。しかし、それらをもっと突き詰めた時、ルールとはその同じ競技をする人がたくさんいて、それをコントロールしたり公正公平に扱ったりするために後になってそれを行う選手たちが作り出した決め事ではないのでしょうか。ところが今の日本のアーチェリーの現状は極端に言えばもうやる人がいないのです。増えないのです。そこまで来ているのに、ルールで新しい仲間を排除して何の意味があるのでしょうか。オリンピックや世界選手権は世界のルールに則ってそれを目指す選手たちが集えばいいでしょう。しかし、日本においてはそれらを支える底辺の大きな広がりのために、新たなルールや底辺のルールがあっても何ら問題があるとは感じないのですが・・・・。 |
何か勘違いがあるのではないでしょうか? |
監督やコーチはいくら偉くても、教える相手である選手がいなければ何の意味もありません。それと同じように、ルールもアーチェリーがなければ意味がないのです。選手集めや選手指導はその仕事の人がやってくれる、というほどアーチェリーはメジャーでもなければ、そんな悠長なことが言ってられるほど余裕のある状態に日本のアーチェリーはありません。まずは、みんなが力を合わせて、ひとりでも多くの仲間を作り増やす努力をしなければならないのではないでしょうか。そのためには、それ用のルールや配慮があっても然るべきと考えますが、いかがでしょうか? |
ところで、選手経験も情熱も常識もないジャッジに、見たか見ないかも分からない態度で、的紙を触りながら、「9点と思います・・・」なんて言われると、ムッとしますよね。従いはしますがね。 |