趙の邯鄲の都に住む紀昌(きしょう)という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名人・飛衛(ひえい)に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねその門に入った。 |
神童と呼ばれた
中島 敦
が昭和17年に発表した生前最後の作「名人伝」。単に修練や熟達のおもしろさ以上の精神を考え、究極において老荘思想を体現した理想人間像を描きあげるにある。 |
飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台の下に潜り込んで、其処に仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。(中略) |
二年の後には、遽しく往返する牽挺が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなった。(中略)竟に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。 |
それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみでは未だ射を授けるに足りぬ。次には、視ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如く、微を見ること著の如くなったならば、来って我に告げるがよいと。 |
紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱を一匹探し出して、これを己が髪の毛を以て繋いだ。そうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。(中略)早くも三年の月日が流れた。或日ふと気が付くと、窓の虱が馬のように大きく見えていた。占めたと、紀昌は膝を打ち、表へでる。彼は我が目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘の如く、鶏は城楼と見える。(中略) |
紀昌は早速師の許に赴いてこれを報ずる。飛衛は高蹈して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。そうして、直ちに射術の奥義秘伝を剰すことなく紀昌に授け始めた。 |
目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚く程速い。奥義伝授が始ってから十日の後、試みに紀昌が百歩隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。二十日の後、一杯に水を湛えた盃を右肱の上に載せて剛弓を引くに、狙いに狂いの無いのは固より、杯中の水も微動だにしない。一月の後、百本の矢を以って速射を試みたところ、第一矢が的に中れば、続いて飛来った第ニ矢は誤たず第一矢の括に中って突き刺さり、更に間髪を入れず第三矢の鏃が第ニ矢の括にガッシと喰い込む。矢矢相属し、発発相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に落ちることがない。瞬く中に、百本の矢は一本の如くに相連なり、的から一直線に続いた最後の括は猶弦を銜むが如くに見える。傍らで見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。 |
(中略) |
紀昌は直ぐに西に向かって旅立つ。その人の前に出ては我々の技の如き児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望みも、まだまだ前途程遠い訳である。(中略) |
一通り出来るようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。だが、それは所詮射之射というもの、好漢未だ不射の射を知らぬと見える。(中略)老人は素手だったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。 |
ちょうど彼等の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を画いていた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿を暫く見上げていた甘蝿が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月の如くに引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちてくるではないか。紀昌は慄然とした。今にして始めて芸道の深淵を覗き得た心地であった。 |
九年の間、紀昌はこの老名人の許に留まった。その間如何なる修行を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。 |
九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変わったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍な面魂は何処かに影をひそめ、何の表情もない、木偶の如く愚者の如き容貌に変わっている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。これでこそ天下一の名人だ。我儕の如き、足下にも及ぶものではないと。 |
邯鄲の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返った。 |
ところが紀昌は・・・・・ |
この後は「李陵・山月記」(新潮文庫¥362)をご覧ください。 |
「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」の無我の境地に達してみては・・・・ |