奇妙なルール

 それにしても近年、アーチェリー競技も変わりました。特に指先より長い半ズボンというルールが登場して以降のアーチェリー(これはちょうでEASTON社の社長であるJim Easton氏が、世界アーチェリー連盟の会長になった時期と呼応するのですが。)は、個人的には釈然としない奇妙なルールが次から次へと登場しているように思います。コンパウンド競技のインナーテンの採用と廃止(パーフェクト記録が出てもいない段階での導入)、リムセーバーの文言化(スタビライザーの一形態であるにもかかわらずの早急なルール化)、古来からの弓の概念(形状)に該当しないハンドル形状の許容(これが認められるなら、もっと認められるべき弓があったはずです。)等など、きりがないのですが、これらの道具や服装といった競技に付随する部分だけではありません。競技そのものにおいても1988年ソウルオリンピック(実際にはこの前年の世界選手権から)からのグランドFITAルール導入を皮切りとした、観せるアーチェリーへの転換は時間短縮と相まってニューオリンピックラウンドを経て、現在の70mでのマッチ戦形式に収束されつつあります。
 このことはアーチェリー競技に限らず、すべての競技がオリンピックという商業活動の場ではそのパフォーマンス自体が一種のショーであり、そのショーを観る不特定多数の人間にいかにハラハラドキドキワクワク感を提供するかが最大の目的となります。そしてなおさらその舞台で生き残らなければならないマイナー競技としてのアーチェリーでは、選手はそれを演じる役者でありたとえ60秒で3人が3本の矢を射つといったアクロバチックな演技であっても台本どおりに演じることは当然といえば当然のことなのでしょう。
 しかし、オリンピックのルールがすべての場面にも共通するとは限りません。草アーチェリーとオリンピックが違うだけでなく、オリンピックと世界選手権のルールが異なっても不思議ではないはずです。しかし特に日本のアーチェリーの世界は初心者がオリンピック選手と同じ道具を使う(使わせられる)異常な世界であり、そこではルールまでもが異常かつオリンピック絶対主義に陥ることがあります。高校生を大学のリーグ戦に出場させた昨年の関西学連3月31日問題やアテネオリンピックを翌年に控え今年突然導入された45歳問題がそうです。
 そんな中で先日、図書館で立ち読みをしていたらこんな一文を見つけました。全部読んだわけではないのですが、中村敏雄という東京教育大学体育学部を出られ、スポーツ学が専門の先生が書いた「スポーツ・ルール学への序章」(大修館書店1995年)という本の一番最初に書かれている「奇妙なルール」の出だしです。話は野球のことで、ここにも出てくるように、イギリス貴族のスポーツであるアーチェリーと野球では歴史も文化も生い立ちも異なるわけで、比較にはならないのですが、これと同じような出来事がこの春の関西学連リーグ戦で起こりました。顛末は異なるのですが、これについては同様の意見を4月に何度も関西学連委員長にもお伝えしました。また、先日6月末にあった学連の監督コーチ会議の席上でも質問を含め話させていただきました。結論も回答も得られなかったのですが、学連においても多くの問題を抱え多くの方々が努力されているのは分かります。しかしその解決策として一部の限られた方から出される一方的とも言える内容の多くが、ルールやルールの整合性を持ち出しながら実はそれ自体がルール違反であったり、本質や解釈を見誤っていることがあるのではないでしょうか。
 
 わが国には野球大好き人間が多い。スポーツ新聞の第一面を飾る記事も大抵は野球である。しかしこのような野球好きの人たちでも、あの膨大な野球のルールの全文を読んだことがあるという人は非常に少ないだろうし、高校や大学の野球部員でさえ読んだことがないという人も少なくない。それでもあまり困難を感じることもなくプレーしているのは、小学生時代から見たり聞いたり、したりすることが多いからで、学校体育の教材として指導されることも極めて僅かであるが、それでもこれだけ野球が普及しているのはプロ野球や高校野球が盛んに行われているからであろう。
 だが、その野球に次のような「奇妙なルール」があることを知っている人はあまり多くない。それは、これがあまりにも当然のことを述べているからで、たとえ読んだとしてもほとんど気にとめられることがないからである。それは次のように述べている。
 「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする」(1・02条)
 これは第2条で、その前の第1条もこれと同じように誰でも知っていることを述べているため、これまた軽く読みとばされることが多い。
 「野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する九人のプレイヤーから成る二つのチームの間で、一人ないし数人の審判員のもとに、本規則に従って行われる競技である」(1・01条)
 この第1条は野球の定義、第2条は目的を述べたもので、ともに無ければ困るものではあるが、あるからといってとくにそれを意識していなければならないというものでもない。しかし、9人しかいない選手のうち1人が怪我でもしてプレーができなくなったとき、その試合を続けるかどうかを決めるのはこの第1条である。旧著でも引用させていただいたが、中条一雄が経験した次のような事例はこのルールに基づいて処理されたもので、その存在理由はこのようなとき鮮明になる。
 「早朝草野球大会の経験をひとつ。朝寝坊ぞろいのわがチームは、九人揃えるのがひと仕事だったが、ある時、当てにしていた人が遅れ、定刻までに八人しか集まらなかった。そこで相手チームに提案した。『外野手を二人にして、欠けたメンバーに打順が回れば、無条件でアウトにしていいから、試合をやってほしい』。ところが相手チームはガンとして聞いてくれない。『野球は九人でやるものとルール・ブックにちゃんと書いてある。試合開始後三十分待ってもメンバーが揃わないときは、こちらの不戦勝だ』。・・・・やがて、定刻から三十分が経過したとき、主審がホームベースに立った。右手をサッとあげて『プレーボール』。と同時に、『9-0で××チームの勝ち』と宣した」。
 中条はこれを「融通のきかないバカバカしい、シモジモまで浸透した形式主義。ああ、この偽善」と述べているが、たとえ形式主義といわれようと、偽善と罵られようと、ルールが「九人のプレイヤーから成る二つのチームで試合する」と述べている以上、中条チームの「ルール違反」は明らかで、「××チームの勝ち」は当然である。さらに中条は「彼らは次の回戦にどうしても進みたかったに違いない」、だから「不戦敗でいいから、エキジビション・マッチでもいい。ともかく楽しくやろうではないか」という中条チームの提案を「ガンとして聞いてくれなかった」のだろうとも述べている。
 だが第2条によれば、「各チームは・・・勝つことを目的」にプレーしなければならないのであるから、「ともかく楽しくやろう」というこの提案は「ルール違反」を相手に求めていることになる。あらためて述べるまでもないが、ここには「早朝草野球大会」だから「楽しくやろう」という中条チームと、「次の回戦にどうしても進みたい」と思っている相手チームとの間に目的の相違があり、中条はこのことから「ルールにしばられると、プレーするためにルールがあるのではなく、ルールのためにプレーするようになる」と述べている。しかし、これが一面の真理ではあるとしても、まさに中条自身が続けて述べているように、「ルールは時として善良な者まで罰し、真の悪者に裏をかかれる」ということもあるため、さまざまな事態を想定してこれを防止しているのである。
 中条は、この場合の彼を「善良な者」と考えているようであるが、相手チームからみれば「ルール違反」をそそのかす「悪者」であり、「サッカーやラグビーでは、一人や二人欠けていてもプレーするのは普通だ」などと他の種目のルールを根拠に「野球偽善論」を展開しているが、サッカーにはサッカーの歴史や論理があり、野球には野球の伝統と精神があって、明らかに両者は異質の文化であり、腹立ちまぎれの論理展開は面白いが、スジは通っていないということができる。
 今ここで「ルールとは何か」ということを述べるつもりはないが、たしかに中条が述べているように「ルールは時として善良な者を罰する」こともあるが、しかしだからといってルールはない方がいいとはいえないし、またその時どきの状況に合わせて自由に変えてよいものであるともいえない。人間が常に平等な社会的関係を保っているとはいえず、力のあるものがこれを勝手に変えたり、自分に好都合なように利用したりすることが少なくないからである。そして野球のこのルールも、過去に何らかの事件あるいは「悪者に裏をかかれた」ことがあって成立したのではなかろうかと考えることができ、一体それは何であったかというのが以下で考えてみたいことである。

 
 第6章 関西学生アーチェリー連盟リーグ戦規定
 第17条 (勝敗の決定)
    リーグ戦は男子8名・女子5名で行射し、その合計点で勝敗を決する。
 
 
 C 出場者名簿提出後の欠員による不戦敗に関しましては、たとえ規定人数(男子8名、女子5名)に達してなくても通常どおり対戦を行います。そして、出場選手が0名の時のみ不戦敗とします。よって8名対1名で4800点対580点という状況が起こりえますが、そのまま試合結果とし不戦敗にはなりません。ただし、この突然の欠員が認められるのは、出場者名簿提出時に規定人数が明記されていることを前提といたします。

 以上の4点は決定事項として話を進めていきます。ご意見・ご質問がございましたら12月21日の代表者会議にてお願いします。

(平成14年12月8日付け、関西学連委員長名で各連盟校に出された「平成15年度リーグ戦に関して」という公式文書から抜粋)
 

 今、日本のアーチェリーが抱える問題を突き詰めると、多分そのほとんどが競技人口の減少に端を発したものです。そこにはニワトリが先かタマゴが先かの議論はあるでしょうが、それにしてもこんな事態に陥ってすでに10数年が経過しました。ちょっとこのあたりで、オリンピック以外のアーチェリー大会のあり方とルールについて考えてみるのもいいかもしれません。
 1988年ソウルオリンピックでアメリカのJ.バーズがグランドFITAラウンド初の金メダルを獲得してからも、全米選選手権はずっとかたくなに4日間のダブルFITAラウンドを守りとおしてきました。その理由は、全米各地から年に一度この4日間アーチェリーを楽しむために集まってくる多くの人たちがいる。その人たちに4日間弓を射ってもらい、友と会い、語り楽しむ場の提供こそがこの全米選手権という大会だ、と言います。そしてそんな大会を彼らは100数十年間守り続けてきたのです。
 2003年9月、日本オリンピック委員会強化事業ゴールドプランを大上段に構え、かつ昨年終了したヤマハカップを引き継ぐという「第1回デオデオカップアーチェリー大会」がもうすぐ開催されます。ところが、その出場資格点数のボーダーラインは1141点です。ヤマハが目指し実践し築き上げた、アーチェリーの夢と理想と精神を再考するきっかけとなる点数だとは思いませんか。参加費が高いのか、レセプションがないからか、70mだけしか射てないからか、単に魅力がないのか、、、理由はわかりませんが、日程と会場だけは引き継いでいます。
 ちなみに、来年の全日本社会人選手権への出場選考得点がリカーブ男子のみ、1175点から1150点に引き下げられました。

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