”Think”

 今でこそ日本で世界チャンピオンがデモンストレーションをしても珍しくないでしょうし、それ以上に世界チャンピオンに本気で見入って感動を覚えるアーチャーなど皆無に等しくなってしまいました。違いますか。この現状に残念とか、情けないという感想すらなくなって久しくなりました。
 理由はなんなんでしょうか。世界チャンピオンがしょっちゅう来日することに飽き飽きした。世界チャンピオンが世界チャンピオンらしくなくなった。世界チャンピオンから今更学ぶものがなくなった。世界チャンピオンといっても商売がらみのイベントと化してウンザリした。世界チャンピオンって何ですか。等など、理由はいろいろあるでしょう。そして世界チャンピオンが日本に来て試合に参加しようが、講習会をしようが、もう日本のアーチャーは笛吹けど太鼓叩けど踊らなくなってしまったのが事実です。呼んだ人間の意図とは別に、強化にも普及にも、商売にも結び付かなくなってしまいました。
 日本がまだ強くなかった時代。最初に来日した世界のトップアーチャーは1969年(多分?)のG.フェラーリ(イタリア)です。彼は1972年からのオリンピックでは3回連続イタリアの代表となっています。S.スピギャレリと並ぶイタリアのトップアーチャーです。では、世界チャンピオンの最初の来日となると、1970年のH.ワード(USA)。そして1974年のJ.ウイリアムス(USA)へと続きます。当時、彼らの来日はアーチェリー界のみならず日本のスポーツ界においてのビッグニュースであり、羨望と学びの対象でした。彼らが弓を構えればシャッターと8ミリの音が鳴り止まなかったものです。
 この頃、日本は本気で世界を目指していました。まだ世界の何たるかも知らずに、無我夢中に夢を追いかけていたのです。そんな中で、日本のアーチャーが世界へと最初に飛び出したのが1976年の全米選手権。そこから日本の世界へのチャレンジが具体化しました。学ぶだけではなく、日本が世界へと射って出たのがこの年だったのです。
 R.マッキニー(USA)は、1976年以来の友人です。彼が始めて来日したのは1976年の全日本選手権。世界チャンピオンとなったのは、翌1977年キャンベラ世界選手権でした。
 
 そしてこれまでに多くの世界チャンピオンが来日し、クイーバーや弓にサインをもらったアーチャーも多いことでしょう。そこにはサインに添えて一言何と書かれていましたか。「Good Shooting Always」「Best Wishes」とさまざまでしょう。
 しかし、「Think」と書かれたものはないでしょう。これは多分1978年に来日した際に、彼が始めて世界チャンピオンとなった時の写真に記念のサインをもらったものです。この時彼に一言アドバイスを書いて欲しいと言ったところ、書いてくれたのがこれです。
 
 
 マッキニーはオリンピックのタイトルこそ持っていませんが、世界選手権を3度制覇しています。しかしこの1977年まで、彼と時代を同じくする偉大なるアーチャー D.ペイス(USA)に一度も勝つことができませんでした。彼が最初の勝利について、「今まで自分は何をしてもペイスのコピーでしかなかった。だから彼を抜くことはできなかった。」と語っています。実はこの大会からマッキニーはヤマハの弓を使い出したのです。ヤマハが始めて世界の頂点を極めたのもこの時です。「ペイスとは違う弓を使い、自分のアイデンティティーを確立することで、世界チャンピオンになることができた。」
 「Think」には多くの意味が含まれています。確かに技は力の中にしか存在しないものであり、練習なしにイメージトレーニングやタクティクスだけで勝てるものではありません。しかし近年、世界チャンピオンに興味を示さないようになった現実の反省を踏まえるなら・・・・世界チャンピオンはバカではなれません。世界で2番ならあり得ても、世界の頂点に立つには素質や体力や体格だけではなく、なおさら努力だけではなく、「頭」が不可欠なのです。このことをもう一度、世界が何たるかとあわせて考えてみてはどうでしょうか。

copyright (c) 2010 @‐rchery.com  All Rights Reserved.
I love Archery