有弓休暇(5)

 「HOYTの名機は?」と聞かれると、これも難しい質問です。が、ひとつ注意すれば、話は簡単です。それは「HOYT」とは、生みの親であるホイットおじさんこと Earl Hoyt Jr.の手によって丹精込めて作られ、育てられた弓のことであり、今の「HOYT」は名前だけがHOYTという「EASTON」の弓だということを理解すればいいのです。EASTON社の傘下となり名前は「HOYT」であっても実態はそれまでとまったく異なってしまった弓を、名前が同じだからと同列に並べるべきではありません。今は亡き Earl もそれは望まないでしょう。
 ではその境目は、というとマグネシュームダイキャスト製品としての最後のモデル、「GM」(Gold Medalist)です。かろうじてホイットおじさんの息がかかったこのモデルですが、それでも結果的にはハンドルの強度不足から捩れが発生し、小手先の形状変更で時間稼ぎをし、EASTON最初のNCハンドル「Radian」へとバトンタッチをします。少なくともアルミNC加工になってからの「HOYT」は「EASTON」の弓であり、真の「HOYT」は名前を譲った後、新たにホイットおじさんが立ち上げた「SKY(Conquest)」が最終モデルとなるのです。
 「HOYT」の偉大さは、ワンピースボウの時代にリカーブのターゲットアーチェリーの世界において最高の弓を作り上げただけでなく、その延長線上にテイクダウンボウというまったく新しい世界を切り拓いたことです。この計り知れない功績の前で「EASTON」ブランドなどないに等しいことは、日本人以上にアメリカのアーチャーは知っています。だからこそ矢ではない弓の世界においては「HOYT」ブランドに執着するのです。1987年、EASTONを初めて完膚なきまでに叩きのめしたフランス「Beman」がEASTONに買収され、今はハンティング用アローとしてその名を細々と残すにすぎないのと同じ、Jim Easton お得意のブランド戦略です。
 では、日本のアーチャーが知るHOYTはというと。名実共に世界を制した上下ダブルスタビライザーの「4PM」(Pro Medalist)に始まります。この時ヤマハは遥か遠くであっても、初めてHOYTを射程に収めます。しかし1970年、HOYTはより完成形としての「5PM」にモデルチェンジします。この後、ハンドル部分の木部に樹脂をがん浸させたマイナーチェンジモデルである紫色掛かった「6PM」を市場に投入するのですが、あえて製品としてのライフサイクルや新製品のテスト期間を無視する形でHOYTは大きな賭けに出ます。52年ぶりにアーチェリー競技がオリンピックに復活した、1972年ミュンヘンオリンピックです。この近代アーチェリー最高の檜舞台を「T/D」(Take Down)のデビュー戦に選ぶのです。この時までテイクダウンボウがなかったわけではありません。しかしそれらは多くのプロに使われてはいても、インドアやフィールドといった距離の短い競技でした。またアウトドアで90mを射つモデルといえば、WingのPresentationUくらいでしたが、それは木製ハンドルのテイクダウンでした。
 HOYTは金属ハンドルでプロメダリストを超えるオールラウンドモデルを開発したのです。その自信たるや、オリンピック参加95名選手中このプロトタイプを使ったのは、男子ジョン・ウィリアムス、女子ドリーン・ウィルバーのたった二人です。そしてこの二人が圧倒的勝利と世界記録で初のゴールドメダルをいとも簡単にアメリカに持ち帰るのです。
 「T/D」の画期的な部分は現在のテイクダウンに引き継がれた接合方式です。外見上はネジを使っていますが、それはあくまでストリング切れの際にリムが飛ばないためのものであり、ヤマハのタックレスインサート方式もこれにヒントを得たものです。(トリプルロッド用のスタビライザーブッシングも十分に衝撃的でしたが。) しかし開発期間が限られていただけに問題もありました。この後数本のハンドルが日本にも入ってくるのですが、強度的な問題から実際の商品としては1973年の「T/D2」が最初の市販モデルとなります。この時グリップは一体成型ではなく、スナップオンタイプのこれも現在の原形となるものにマイナーチェンジされています。
 すべてが名機の中にあって、一番を選ぶならこの「T/D2」でしょう。1976年モントリオールオリンピックでは、ダレル・ペイスのこのハンドルに世界初のカーボンリムが装備されていました。その後、これも現在のポンド調整機構の原型となるシステムを採用した、「T/D2」の改良型「T/D3B」なるモデルも出るのですが、これら「T/D」シリーズがこの後、数々のタイトルと共に世界記録を1341点まで更新するのです。それ以降の記録はすべてカーボンアローによるものであり、HOYTの独創性と性能を超えるものではありません。
 HOYTの哲学のひとつに、プロを雇わないというものがあります。HOYTを使ったすべての世界チャンピオン、レイ・ロジャース、ハーディー・ワード、ジョン・ウィリアムスもダレル・ペイスも金のためにプライドを捨てることもポリシーを曲げることもありませんでした。信頼する道具と共に栄光と名誉を勝ち取ったのです。1973年、選手としての絶頂期にあったジョン・ウィリアムスは全米選手権終了後プロアーチャー転向の書類にサインをします。その相手はHOYTではなく、当時ブランズウィックの傘下にあったWing社でした。こんなのどかで平和な時代は、HOYT/EASTONになった瞬間に消えうせました。
 金と設備があれば良い弓が作れると言うものではありません。知識も経験も、ノウハウも不可欠です。しかし、いくら顔のシールを貼り付けても、心と哲学を受け継がなければ名機は決して生まれるものではないのです。なにか勘違いをしていませんか。

copyright (c) 2010 @‐rchery.com  All Rights Reserved.
I love Archery