有弓休暇(11)

 突然のお誘いメイルがあって、思いつきでタヌキ見がてら袋井(静岡県)まで飲みに行ってきました。久しぶりに棟梁の澤元さんとも会えて、楽しい時間を持つことができました。で、なぜ袋井か。実は宮大工の澤元さんが、親友のために建てた家の新築祝いのお誘いでした。
 この澤元さん、以前ここに登場しているのですがその活躍は凄いもので、国の卓越した技能者に与えられる「現代の名工」にも選ばれ、一昨年は黄綬褒章も貰い天皇陛下とも会っているのです。世の中こんなバカがいると、嬉しくなってついつい飲みすぎてしまいます。
 そこで今回はなんで盛り上がったかというと、モノや金を残すのではなく、人を残す、人を育てる話です。末は人間国宝かという人と比べると失礼ですが、それでもお互いのところに教えてほしいと来るヤツがいます。結論からいうと、それがものになるかならないかもそうですが、すべてが「縁」だよねって話です。運も努力もありますが、すべては縁がなければという話です。
 ちょうど今、縁あってひとりの高校生に弓を教えようかと思ってます。教えて欲しいという。努力もするという。そして「世界」に行きたいという。
 問題は最後の目標です。「行きたい」が「行くだけ」のことなのか「勝ちに行く」のかでは、特に今の日本においては雲泥の差です。行くだけでいいのなら、大学でアーチェリーをする、クラブ活動を頑張ると同じレベルでいくつかのモノが備わっていれば普通のことをしてできるかもしれません。問題は、「世界」で「勝つ」場合の話です。世界は趣味でもなければ、遊びでもない。それに世界となれば、いくら縁があっても選手がコーチを選ぶように、コーチも選手を選ぶ権利があるのです。誰でもがなれる以前に、目指せるものではないのです。資質、才能、努力、体格、環境、金、理解、コーチ、幸運、すべて縁と共に備わらないとスタートすらできないのです。高校でちょっと上手かったくらいで、可能性が見えるようなものでは決してありません。高校でちょっと上手いのは、世界に行くだけと同じ次元の話です。
 二人とも、本気で世界一をいつか作りたい、育てたいと思っているのです。そんな澤元さんのところにも、立派な大工になりたいと高校生が来るそうです。そんな時どうするのか聞いてみました。まず親を呼ぶというのです。本当に息子を預ける気があるのか、預けるとはどういうことなのか分かっているのかをまずははっきりさせるというのです。しかしそうしてそこに縁があったとしても、実際始めてみると才能や資質の部分で縁がないことはいっぱいあるといいます。しごく当たり前の、当然な話です。しかしともかくは始めてみるしかありません。
 縁があったので、世界に行きたいという高校生といっしょに練習してみたいと思いました。今までも試合では見たことはありますが、教える対象ではありませんでした。だから呼んでみたのですが、練習がある、合宿があると、高校生にその判断や決断を求めるのが酷であることは十分承知したうえで、何が大事で何に優先順位があるかを見いだせるのにも縁があると自分を納得させる次第です。そしてやっと京都で3日間過ごしてみました。朝のジョギングにもスクワットにもついてこれない。上手くは射つが、美しさにも迫力にも世界とは距離がある。そして何よりも、体格が劣る。それは勝ちに行くには致命的ともいえるハンディです。足腰の弱さはトレーニングで強化できます。シューティングは素質があれば、何とかなるでしょう。ところがリーチの短さは、今さらどうしようもないのです。もしそれを補おうとするなら、他を圧倒するパワーを持つしかありません。しかし、もしそれができるなら、短い矢のパワーはハンディをアドバンテージに変える可能性を秘めています。風の中での長距離で、長い矢に勝てる方法はあります。しかしそんな意味すらまだ理解できないのでしょう。
 世界一を取りにいく時、そこには圧倒的なパワーと若さと経験がなければなりません。世界一にはラッキーやまぐれは存在しないのです。その意味と経験としてのノウハウを教えて欲しいと頼まれて教える時、日本のアーチェリーの異常さを痛感します。大工の棟梁が弟子に教える時、そこに言葉の有無に関わらず、教えは絶対であり命令です。なぜならその教えには、何10年にも及ぶノウハウと、それによってなし得た技が存在するからです。それを学ぶことが指導を仰ぐことであり、技を盗んでこそ師を超えられるのです。
 ところがどうでしょう。日本の成熟しない未熟なアーチェリーの世界には、教えるシステムも学ぶ姿勢も存在しないのです。他のどんな競技を見ても、そこには学ぶ常識があります。今回の師弟の話は違いますが、例えばママさんテニスでもサンデーゴルフでも、金銭と引き換えにレッスンを受けノウハウを買っているのです。知識やノウハウは財産です。アーチェリーの世界のように、なんでもタダでやり取りしてきた結果が教える側の言葉を軽いものにし、聞く側の本気をそいでしまいました。結果、教える側と教えられる側を対等の位置に置き、コーチと選手の上下関係をなくしてしまったのです。野球、サッカー、バレー、シンクロ、レスリング等など、メダルを取るどんな競技を見ても監督やコーチと選手の立場、関係は明白です。ところがアーチェリーは、その当たり前の一般常識が通用しません。すべてが個人の努力と経験だけに頼ってきた結果、世界で2番は同じ年月を掛けてやっと取れるが、世界一を作り出せないのです。世界で2番は次は5人目になるだけで怖くも偉くもありません。ところがノウハウの伝授や指導のシステムがないがために、また20年を要するのです。しかし我々が求めているのは、世界一です。2位を乗り越えたところにそれはあります。そのためには我々が何10年も学び、蓄えてきたノウハウを将来ある若者に伝授するしかありません。若者はそれを謙虚に学ぶべきです。
 
 リーチの短いハンディを克服することは、ちょうど40数年前ヤマハが非力で体格の劣る日本人に勝つチャンスを与えたのと同じことです。心・技・体だけでは不十分です。仮にすべてが同じであれば、性能の上回る道具が勝利を呼びます。自分に合った、より優れる道具をも手に入れることもノウハウです。
 だからまず本来の自分にあった弓の長さに短く替えることと、世界に通用する強さにポンドアップすることを教えました。もちろんやるべきトレーニングや練習も併せてです。ところが指導の意味を知らないこの世界では、自分のやれることしかしないのです。弓を短くして30m350点の高校タイ記録を出せば、それで満足なのでしょうか。距離が短く条件が良かったからこそ出たということを理解しないのです。できることを繰り返すのが練習ではありません。できないことを、できるようにすることが練習なのです。そしてしなければならないことを教えるのが指導であり、ノウハウです。
 仮に世界で30m350点を射ったとしても、数点開けるかどうかの世界です。数点ひっくり返されることの方が現実的です。70mで340点を射つ話を教えているのです。目先の試合や結果はどうでもいいのです。そんな未知の世界を高校生が理解できないのは許します。しかし、アーチェリーだからといって、取り巻きが指導の邪魔をすることは遠慮するべきです。誰がコーチなのかを、選手も回りも認識するべきです。
 難しい問題です。最近はテレビを点ければ世界の頂点を目指す若者たちが映し出されます。それを観れば世界を知らない門外漢であっても、世界の何たるかは想像できます。ところがアーチェリーでは、大学のクラブで教えるアーチェリーと世界一になるためのアーチェリーが根本的に異なることすら教えてこなかったのです。アーチェリーだからこの程度で勝てるとでも思っているのでしょうか? 
 棟梁の座右の銘は、「人は、金を残して可。物を残していまだ中。人を残して人生良しとする。」です。
 これは最初に建てた寺の和尚に言われた言葉だそうです。初めてお寺の仕事をいただいた澤元さんは、建築が終了した時最初の見積もりより大幅に金額が掛かってしまい、このままでは倒産してしまう事態になったのですが、、、、最初に決めた金額をいまさら変更できないので和尚にこの金額で良いのかと聞かれた時、それで結構ですと答えたのです。すると和尚は、この金額でできる訳がない。本当の金額を言いなさいといわれ、本当のことを話すと。和尚は澤元さんの心に感動して、あなたは桶の水を外に回す人だ、自分の方に回す人は脇からその水は逃げる。外に回す人は自分に帰ると教えたそうです。すべては縁から始まります。
 何を成すべきかを知っているから教えようと思うのですが、縁がなければそれも始まりません。金や物ではないのです。そんなこんなで、この日は夢を肴によく飲みました。
 棟梁が建てた立派な家に、新築祝いのタヌキを贈りました。いい顔でしょう。信楽焼きのタヌキは、福と友を呼ぶそうです。棟梁との出会いも縁でしたが、これからもいい縁がいっぱい生まれるといいのですが。。。。

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