1972年、初めてHOYTがマグネシュームダイキャスト製法によるテイクダウンボウをオリンピックでデビューさせ、世界記録とともにゴールドメダルを獲得することでそれまでの木製ワンピースボウから一気に時代は「テイクダウン」へと変わりました。1975年ヤマハがこのリカーブ部門に参戦してからは、世界のアーチェリーはこの2社の技術開発とそれに伴う選手対策によって高得点へと導かれていきます。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。 |
ヤマハの開発コンセプトの基本にあるものは
、「日本人の手によって世界を制覇する」
というものです。このもと1975年、「Forged」 「Eolla」 「EX」 すべてのヤマハボウの基本仕様となる 「Ytsl」 が発表されました。ここで特徴的だったのはそれまで
HOYT をはじめとするテイクダウンハンドルのスタンダード(基本形)とされていた 「24インチ」 ハンドル( 現在「ショートハンドル」と呼ばれているもの ) に加えて、ヤマハが唯一 「26インチ」
ハンドルを世に出したことです。このメリットは同じボウレングス(弓の全長)ならアメリカ製の弓より、リムの長さを短くして組み合わせられる点です。 |
日本人の体格差を考慮して、同じリーチ(矢の長さ)であればリムのたわみをしっかりとり、より効率良く弓のエネルギーを矢に伝えることで体格・ポンド数で優る外国人選手に対抗しようというものでした。これが功を奏して1977年キャンベラ世界選手権では男子1位・2位、女子1位のタイトルを獲得。その後も破竹の勢いで世界を制していったのです。1983年、「EX
Cusom」
カーボンリムで世界をリードするヤマハに成すすべがなかった
HOYT が出した切り札が 「GM(Gold
Medal)」
でした。リムの性能で優位に立てないHOYT
が考えついたのは 「25インチ」
ハンドルという、イレギュラーなハンドルとその組み合わせでした。これには理由があります。リム単体ではヤマハの矢速に追いつかないため、66インチの組み合わせの時に短いリムによってそのたわみを大きくしたのです。ヤマハとの中間を狙ったわけです。(
しかし、この仕様をRadianにまで引きずったことは関心できません
)
それはそれで良かったのですが、ところが1980年代後半にカーボンアローが出現することで形勢が変わりました。 |