有弓休暇(36)

 ちょっと会いたい人がいて、「つま恋」まで行ってきました。昨年は震災で中止でしたが、いつもなら桜が満開のこの時期、今年は寒かったせいか初めて桜のない高校選抜です。とはいえ、天気は快晴の春らしい気持ちのいい2日間でした。
 ひとりに会いたくて、それ以外は特に考えていなかったのですが、、、行けば行ったでいろんな懐かしい連中やいつもの連中に会うものです。今回もそんな連中にたくさん会えて、楽しい時間を過ごさせてもらいました。が、特に盛り上がったのが、夕食を一緒に飲んでいて突然命名の「1971年ドシャ降り全日の会」です。知る人しか知らない、あのドシャ降りの三ツ沢競技場であった全日本選手権に出ていたということで、大盛り上がりに盛り上がりました!
 1971年は梶川さんが日本人で初めて5位入賞を果たした、ヨーク世界選手権の年。その選考会で中本さんが「世界記録」のトータル1252点と50m320点を森林公園で樹立。日本のアーチェリーが最も輝きを増す時代に入っていく最初の一歩が、この1971年でした。前年の全日本選手権では赤澤さんが、日本初の1200点突破の1234点。その前の全日本都道府県対抗では中本さんと若槻さんが揃って1196点の日本記録。翌年の1972年は、アーチェリー競技が52年ぶりにオリンピックに復活した、記念すべきミュンヘンオリンピック。
 日本のアーチェリーが燃え盛っていた年の、冬目前10月30-31日の全日本選手権。そんな情熱を消すに十分すぎるほどの大雨と寒さの大会でした。世界選手権の歴史の中で、唯一試合が中止となった大会が1973年のグルノーブル世界選手権。初日の大雨と大風で開始前に中止が決定。結果的には2日目にFITAシングルを1日で射ち、3日間でダブルFITAを行うという変則大会でした。そんな雨風に寒さが加わったような、全日本選手権の歴史の中で最も過酷な大会といって過言でないのが、この1971年の三ツ沢です。グルノーブルの後にこの大会があれば、中止の判断があったかもしれません。
 勝ったのは、2位と93点の大差をつけた中本新二選手。その大差をつけられた2番手が、この天野利彦選手。昔は強かったんですよ。知らないでしょうが。プロのように(?)強かったんですよ。
 初日の中本さんは1137点。今と違ってアルミ矢とグラスリム、そしてダクロンストリングで戦っていた時代に、あの天候ならこれはすごい点数です。今なら的が倒れるような風で1350を射つようなものです。と言っても分かってもらえないでしょうから、この試合がどれくらい凄惨を極めたかというと、今は亡きT選手が昼休みにみんなガタガタ震えているところに、あの三ツ沢競技場のスタンド下の「室内」で、網のゴミ箱を持ってきて中の新聞紙に火を点けて焚き火を始めたというくらい、すごい状況かつ平和な状況だったのです。誰も注意することなく、みんなその周りで暖を取りました。あれがなかったら凍え死んだ選手が出ていたかも・・・。
 と、そんなバカ話で楽しく飲みました。ちなみに、川西大介選手は15位。伊藤寿彦選手は19位。あと、つま恋には来ていてこの会にお呼びできなかった有資格者は、瀬戸際の魔術師こと前田栄一郎選手18位でしょうか。
 今度は全員参加で飲みましょうか。早くしないと、有資格者がひとりふたりと減っていくので。。。 
 ところで、最年少の高校2年の亀井孝選手は30位。青春の一コマでした。

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