久々にアメリカに行って、久々に原稿を書きました。「雑誌アーチェリー」
2006年3月号(2月20日発売)に載ります。 |
そこで思うのですが、ギャラ(原稿料)の有無にかかわらず紙ベースで残るということを別にしても、「広告収入」に依存する雑誌はその広告主(クライアント)によって書けること、書けないこと、載せられること、載せないことが歴然と存在するのです。同じ広告収入に依存するなら、それが膨大であればフリーペーパー(無料の雑誌)という選択肢も含め発行部数で稼ぐ方法もあるのですが。発行部数も購買数も少なく、広告主が限られるというマイナーな専門誌においては、クライアントの意向が編集長の理想やポリシーと反しても優先されるという、悲しい現実があるのです。大きな広告料を払ってくれるお得意様の意見(言葉で言われるかどうかは別にして)は読者の利益に勝る、という生きるための法則です。 |
これまでにも何度かそんなことで文句を言ったことはありますが、それはそれで向こうにも言い分はあり、方法もあるのでしょう。となれば、読者としてその前提をシッカリ理解したうえで、賢い購買者や読者にならなければ¥1000近い「カタログ」(宣伝)をありがたい情報(雑誌)と思って買うことになってしまいます。最近は明らかに広告であるページだからこそかもしれませんが、ページの隅ににも「PRのページ」とは書かれていません。ご注意ください。 (こんなことを書いていると、次回の原稿依頼は望めませんが、、、、これは編集長や雑誌の在り方を責めているのではありません。部室の雑誌を立ち読みせず、アーチェリー界唯一の専門誌を1冊でも多く購読して欲しいからこそ言っています。) |
↓この原稿の中に「180,000本」という興味深い数字が出てきます。あなたのまわりのアーチャーと今年の新人の数、そして試合に行って日本中で1年で何本の弓が売れるかをちょっと想像すれば、この数字の凄さは一目瞭然です。アメリカ最大のメーカー1社が1日に生産する数が、日本の1年なのです。 |
そんな数を我々は守れなかった、守ろうとしなかったからこそ「YAMAHA」は消えたのです。ユーザーの責任とは言いません。今、雑誌も含めたマイナーな世界を操り、さもあの時ヤマハを助けたようなことを言っている○○の責任を言っています。 |
1980年代に入ってヤマハがリカーブというアーチェリーの世界で頂点に立ちかけた頃、アメリカ国内で「Buy
American」という運動が沸き起こりました。日本製の自動車やSONYのプレーヤーが、ハンマーで叩き潰される映像が日々ニュースで流れたあの頃であり、ロサンゼルスオリンピックの時代でもありました。それが良い悪いにはいろいろな意見があるでしょう。ただ、その時ヤマハというアーチェリーの世界にいた者としての思いはあります。アメリカ製の弓よりYAMAHAは勝っていました。しかしアメリカの連中はアメリカの製品を守り、育てるためにアメリカの弓を選んだのです。性能や金、そして理屈ではないのです。「Buy
American」なのです。 |
「Buy
American」はそれが劣るからこそ、そこに運動が生まれたのでしょう。「Buy
Japanese」を声高らかに叫ぶ必要はありません。アーチェリーにおいても日本製が優れることは、自動車や電化製品を見れば誰でもが理解できることだからです。問題は、「マイナー」という小さな世界とそこから生まれる悪循環なのです。レンジで、試合場でまわりを見渡せば、○○の意見を冷静に聞いてみれば、その異常さはわかるはずです。 |
運動でも宗教でも、ましてや目先の利益ではなく、常識、良識としての「Buy
Japanese」を考えてみませんか?! 「雑誌アーチェリー」を含めた、日本のアーチェリーを守り、健全に育てるために! |
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亀井 孝の
「2005年
ハッピー・クリスマス」 (最新アメリカアーチェリー事情)
久しぶりにアメリカに行ってきました。いつもの思い付きで、突然クリスマスから年始にかけて。
初めてアメリカに行ったのが、1976年の全米選手権。たぶん日本人では初の参加でしょう。ヤマハ(当時は日本楽器)の協力を得ての、個人での参加でした。翌1977年からは全ア連が選手を送るようになり、毎年全米選手権とラスベガスシュートのたびに渡米していました。そんな生活が10数年続いたのですが、実は前回アメリカに行ったのは1991年に本を書く関係でダレル・ペイスに会いに行ったのが最後でした。
ほんとうに久しぶりのアメリカ。フリーウエイにはプールレーンができて、コーヒー一杯飲むにもクレジットカードが使えて、どんなレストランでもみんなドギーバッグで残り物を持ち帰るようになり、昔の日本人のように中国人がいっぱいいて、テロ対策のボディーチェックを除けば、便利で快適になってはいました。そんなアメリカで、一年のうち360日が晴れという半袖のツーソン、ずっと曇りだった長袖のLA、そして4日とも雨の降っていた真冬のシアトル。アメリカの広さを感じる11日間でした。
そこで、あなたがリカーブアーチャーかコンパウンドアーチャーかに関わらず、「コンパウンドボウ」がいつ生まれたかを知っていますか? そしてこの大発明をしたのは、誰なのかを知っていますか?
意外と日本のアーチャーは知らない。というより、知らされていないのです。しかしこのことを、アメリカのアーチャーの多くはよく知っています。なぜならコンパウンドボウは、アメリカ人の合理主義が生み出した20世紀最大のアーチェリー界における発明だからです。すでにコンパウンドボウはアメリカにおいて、アーチェリー全体の90%をはるかに超えているのです。
この大発明はHolless Wilbur Allen によって、1966年ごろに生まれたと言われていますが、正式の誕生日は1969年12月20日です。Allen の特許が成立したのです。
1969年は、私がアーチェリーを始めた年でもあります。そこで当時を思い出してみると、確かにその頃はハンティングやテイクダウンボウの試作のような弓の話、そしてリリーサーの原型となる道具の写真はあっても、滑車付きの弓の話は皆無でした。ところが1975年頃から、アメリカの雑誌の半分以上を突然コンパウンドボウの話題と広告が独占するのです。そこからは怒涛の勢いです。
35TH ANNIVERSARY
このAllen のオリジナルコンパウンドはメーカーとしてはすでに存在しないのですが、発明当初からずっとコンパウンドボウを作り続けているメーカーを知っていますか。実はこの特許が成立した時、Allen は5つのメーカーに特許の使用を認めました。そして当時から現在まで一貫してコンパウンドボウを作り続けているのは、唯一「PSE」(Precision Shooting Equipment)社だけなのです。では、PSEがどこにあるかというと、それがアリゾナ州ツーソンです。1982年にイリノイ州からここに本拠を移しています。
そこで行ってきました。その前に、PSE
を語る時にもうひとつ忘れてはならないことがあります。それは社長でもあるPete Shepley の存在です。この名前を知るアーチャーは、コンパウンドボウの誕生日を知る以上に少ないでしょうが、アメリカのアーチャーなら誰もが知っていると言っても過言でない人物です。その伝説の人物に会いたくて、行ってきました。
とはいえ思いつきです。それもクリスマス前です。航空券は取ったものの、出発の日になってもアポイントは取れませんでした。それにツーソンに着く23日はすでにPSEはクリスマス休みに入っています。アメリカのクリスマスは日本の正月と同じです。そんな不安の中でのアメリカ入りだったのですが。
なんとツーソンに23日の夜に到着し、LAとの時差があることも知らず寝入っていたホテルに朝、Pete の息子のJon が迎えに来てくれたのです。そしてPete の家へ連れて行ってくれました。ツーソンはまわりを砂漠とサボテンに囲まれた都会ですが、そんな街外れの自宅です。
驚きました。その自宅がどれくらい大きいかですが、(EASTON社の社長であるJim Eastonの自宅にも行ったことはありますが、LAとはいえプールがある程度でした。)敷地の中に10数頭のサラブレッドと牧場。物置には飛行機、家の前には自家用のヘリコプターが置いてあるのです。
彼はリカーブアーチャー時代から培ってきた自らのアイデアを付加したコンパウンドボウを、1970年に発表。それがあっという間に全米に広がり、その結果1971年に現在のPSEを興すに至ったのです。それから35年、彼のサクセスストーリーやアーチェリー界への貢献はコンパウンドボウの歴史とともにありました。そんな彼の35周年を記念する新しい弓の試作を見せてもらったり、馬に乗せてもらったり、そしてPete 自らが操縦するヘリコプターでツーソンを空から案内してもらったのです。それだけではありませんでした。なんとその夜に彼の娘さんの家であるクリスマスのホームパーティーに、招待してくれたのです。会えるかどうかも不安だった思いつきが、最上のクリスマスイヴとなりました。
有弓休暇(2005年12月24日)
彼には娘さんと二人の息子がいるのですが、この2番目のJonはPSEで働いています。そこでPeteとJonからいろいろな話を聞いたのですが、いかに我々の住んでいるアーチェリーの世界、それもターゲットを中心にした世界がマイナーであり、小さいかを痛感させられました。それをこの紙面、あるいは言葉だけで説明するには限りがあるのですが、たとえば翌々日の26日にクリスマス休暇中のPSE本社を案内してくれました。
PSEはアーチェリー界においてアメリカで1、2を争う大企業です。それは世界のアーチェリーマーケットにおいてもイコールであることを示しています。ちなみに争っている相手は、みなさんが思うメーカーではありませんが、アーチェリーはアメリカのスポーツ産業におけるビッグビジネスです。日本にいては見過ごしてしまう現実です。
ではどれくらいにビッグなのか。社長の住まいでも分かるのですが、ひとつだけ数字を挙げましょう。PSEの年間での弓の生産本数は「180,000本」です。1日に700本の弓を作り、日々世界に送り出しています。この工場には最新の日本製NCマシン12台をはじめとし、ほとんどすべてを自社生産できる設備があります。
そこで休暇のため生産ラインは止まっていましたが、この日から営業を始めていた一般にも開放されている敷地内にあるアーチェリーレンジとプロショップを紹介しましょう。ちなみにこの本社だけで普段は400名近い従業員が働いています。
あーちぇりーれんじ壱百景
まずはレンジ。昔はここでアリゾナカップも行われていたらしいのですが、90m射てるレンジですが幅も90mあるでしょうか。シューティングラインには屋根もベンチもあり、距離別に的が設置してあります。指導を受けたければ、専属スタッフが丁寧に教えてくれます。こんなレンジの利用料金が、なんとたったの$3です。それをドアの穴から放り込んでおけば、一日自由にアーチェリーが楽しめます。
そしてその横(といっても、車が100台以上は停められる駐車場の横ですが。)には、こんなプロショップがあります。中には18mのインドアレンジもあるのですが、ここにも専属のプロスタッフが何人もいて、チューニングやいろいろな相談に気軽に乗ってくれるのです。これらが、ツーソンの街中にあるのです。
ここまで見てきて、なにか気付きませんか?
Allenの特許は、すでに25年を経過した段階で消滅しオープンになっているのです。しかし、だからといって誰でもがサクセスストーリーを手に入れられるわけではありません。なぜなら、Allenの特許は現在においてもコンパウンドボウの中心をなす基本特許といえるものでした。そしてこれが公開されると同時に、多くの周辺特許ともいうべき新たな発明がぞくぞくとなされ、現在に至っているのです。コンパウンドとは進化し続ける、最新の機械式アーチェリーなのです。だからこそ技術や設備、資金だけではなく、それらの知識やノウハウ、そして何よりも特許なくしてコンパウンドボウは作れないのです。現在ある最新の弓は、すべて何らかの特許によって保護されているのです。
そのことを理解したうえで、もうひとつ。
先にアメリカでは90%以上がコンパウンドボウだと言いましたが、その90%の中でターゲットアーチェリー(的に書いた丸い5色の輪を、決められた距離から何度も何度も射つアーチェリーのこと。)をするアーチャーは、1%にも満たないのです。残り10%のリカーブボウアーチャーにおいても、その中の90%以上はハンティングや3Dといったターゲット以外のアーチェリーです。
ということは、アメリカで何100万人とも言われるアーチェリー人口の中で、リカーブボウでターゲットアーチェリーを楽しむ連中はマイナーの中のマイナーということです。それが証拠に、ダレル・ペイス、ジェイ・バーズをはじめ多くのゴールドメダリストたちを生み出すNAAは、6000人程度の登録人口です。NAAと同じ組織である全ア連は12000人程度の登録人口を持っています。(ただし6000人のバックボーンとして何100万人の潜在人口があるのと、12000人がすべてとは違います。)
アメリカでコンパウンドを入れても数%のマイナー世界が、日本では「100%」なのです。この日本の特殊性を知らなければ、そして我々の世界が普通と思って世界を見ていると、いろいろな場面で判断を誤ります。たとえば、コンパウンドに75年の歴史があるわけでも、あなたが知っているメーカーが一番でもないのです。
「井の中の蛙、大会を知らず。。。」 そんなことを砂漠の中で想う、年の瀬でした。今年もぜひ、いいアーチェリーの一年にしましょう! |