「アーチェリーの聖地」営業終了

 1975年の野外コンサートでは、多目的広場から掛川の駅までの人の列が途絶えることなく続いたものです。
 そしてアーチェリーを愛する者にとっても、ここは聖地でした。2002年、ヤマハがアーチェリーから撤退。すでにヤマハを離れていた合歓の郷も昨年2015年に売却。そして2016年、ついに聖地までもが失われました。現場の社員もニュースで出る数時間前に知らされたそうです。
 源一さんがハワード・ヒルからもらった弓を持ち帰った時から、日本のアーチェリーが始まりました。1987年にヤマハは創業100年を迎え、これに合わせて「センチュリープロジェクト」が全社的に行われたのです。この時、アーチェリー部門で作られたのが「センチュリーモデル」と呼ばれる、当時では世界最先端のオールカーボンハンドルとそれにセットされるリムやパーツでした。以下はその時発刊された「ヤマハ100年史」からの抜粋です。

 源一さんにとってアーチェリーは道楽でした。「日本の弓で日本のアーチャーが世界の頂点に立つ」ことが源一さんの夢だったのです。だからこそ採算ベースに乗らない「アーチェリー部門」だけが最後まで残りました。ヤマハからスキーが、テニスがそしてゴルフを除くすべてのスポーツ部門が撤退しても、2002年に源一さんが亡くなるまで撤退を免れたのです。
 源一さんの夢には、音楽と同じくらいに「エピキュリアン」がありました。「ただ飲み食べ騒ぐのではなく、自然の中で心を開放する豊かな時間を」求めました。そこで作られたのが合歓の郷でありつま恋であり、厳選された数々のヤマハのレクレーション施設でした。

 当時、アーチェリーに限らずすべてのスポーツにおいて「アマチュア」という言葉が厳格に存在していました。そんな時代だからこそ、源一さん(ヤマハ)と全日本アーチェリー連盟が対立するのは必然でした。
 そこで源一さんは全ア連の公認を取らず、独自のアーチェリー大会を立ち上げます。それが「つま恋カップ」の前身の「ヤマハカップ」のそのまた前身にあたる「川上杯」です。
 この試合は最初、弓を作る「西山工場グランド」からスタートし「天竜工場」に移り、そして第9回大会から前年オープンした「つま恋」で開催され、現在に至っているのです。
 ちなみに全ア連との関係が修復され、ヤマハカップと改名されるのは昭和62年(1987年)の大会からです。

 日本で最高の大会にしなさいとの命の基、世界選手権や全米選手権を参考に、そして海外からも多くのチャンピオンを招き、採点方式やレセプション開催など最先端最新鋭の大会が「つま恋」で行われてきました。また大会だけでなく、レベルアップキャンプやレディースキャンプなど多くの合宿や講習会も実施されました。

 つま恋が「聖地」と呼ばれるのは、単にそこに試合会場があるからだけではないのです。そこにアーチャーの夢と理想の歴史があるからです。

 ハードとしての弓がなくなり、今度はハードとしての設備が消えました。全日本、高校選抜、王座、、、試合会場探しが問題ではありません。弓のノウハウが消えたように、今回でソフトも消えうせてしまったのです。どうします、これからの日本のアーチェリー。
 そういえば、結婚式をしたのも「つま恋」でした。。。

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